津山中央病院


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津山ってこんな所

津山ってこんな所

 

津山ってどこ?岡山県北にある田舎?…津山をあまりご存じない方もいるかもしれません。

津山市は、岡山県北の美作地方および津山都市圏の中心都市であり、同時に人口面と経済面における県北最大の都市です。

 

交通面では、中国自動車道・津山インターがあり、高速自動車道で広島や大阪へのアクセスも容易であったり、岡山市内への電車やバスなどの交通機関もあります。

北へ行くと、蒜山高原や鳥取砂丘や日本海などの自然豊かな観光地もあり、たまの休みにちょっと遠出するにも程良い距離です。

 

地上から45mに及ぶ立派な石垣が当時の面影を残す、津山城は街のシンボルで、

城跡は『さくら名所百選』にも選ばれた西日本有数の桜の名所としても有名で、桜の季節には毎年多くの人が訪れ、

夜にはライトアップされた桜を見物することもできます。

 

最近の注目スポットとして、「津山まなびの鉄道館」が人気で、国内に現存する扇形機関車庫の中で2番目の規模を誇る「旧津山扇形機関車庫」や収蔵車両を中心とするさまざまな展示と憩いの施設として、子供から大人まで多くの観光客が訪れています。

 

津山は、中国山地の麓にあり、自然に囲まれた環境でありながらも、大型ショッピングモールや、カフェなどの飲食店も充実しており、落ち着いて子育てや勉学が出来る環境であることから、最近では、若い方のUターンやIターンなどの、移住・定住の人気も高まっている、注目の都市です。

 

 

箕作阮甫(みつくりげんぽ) の生誕地

 

 

津山は、東京大学の創立に関わったとされる箕作阮甫の生誕地としても知られています。

 

津山西新町で代々町医師を営む家に 生まれた阮甫は、早くに父と兄を失ったため家を継ぐことになり、幼年期から学問に励みました。

京都に出て医学を学んだ後、宇田川玄真の門に入り、以後蘭学の習得に努めました。

 

阮甫は天保 10 (1839) 年、幕府の天文台である司天台の訳員 (翻訳方) となり、1853年のペリー来航時にアメリカ大統領の親書の翻訳を命ぜられたほか、ロシアのプチャーチンがやって来た時は、対露交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際しても大いに才能を発揮した学者です。

 

開国後、本格的な洋学の研究・教育機関の必要性を認識した幕府が設立した「蕃書調所」の首席教授に阮甫が任命され、この「蕃書調所」が後に東京大学へと発展しました。

 

また阮甫は、日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、その他様々な分野の著書も残しています。

 
 


 

 

津山市西新町には、14歳ごろまで阮甫が過ごした生家(国指定史跡)が残っているので、日本と医学の発展に貢献し人生の礎となった幼少期の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?

 

 

 

グルメ・ショッピング

 

市内には、コンビニやドラッグストアなどが数多く点在しているほか、「天満屋」「イオンショッピングモール」などの大型ショッピングモールもあります。

また、カフェやレストランやバーなどの飲食店なども充実しています。

 

津山グルメといえば、B1グランプリで優勝した「ホルモンうどん」が有名で、週末には、有名店に行列が出来たりします。